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能登半島地震から2カ月

地域医療の中核を担う公立宇出津総合病院

​能登町・倒壊した建物

(上)道路寸断、職員8割が出勤できず
​   発災3日間の救急搬送130人

  能登半島地震から2カ月が経過した。1日現在の被害は死者241人、重軽傷者1191人、倒壊家屋は7万6824棟に上る。いまだ多くの人が避難所生活を強いられ、県内外の他都市へ避難した人も多い。冬季の地震発生でライフラインが寸断。救援や支援物資の輸送に支障が生じ、過酷な状況が起きた能登半島。その時、関係者はどのように動いたのか。今回の災害を通して学ぶ教訓は何か。現場を歩き、医療機関や介護施設の関係者に話を聞いた。3回シリーズで伝える。
  「自宅から病院まで車で15分ほど。それがどこの道も土砂崩れや陥没で通れない。行けるところまで車で行き、1時間歩いて病院にたどり着いたのは2日の午後でした」。地域医療の中核を担う能登町・公立宇出津総合病院の上野英明事務局長(社会福祉士)は、発災当時をそう振り返る。到着した時、病院内は負傷して救急搬送された町民や透析を要する患者たちが詰めかけていた。

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市内中心部でも家屋倒壊が多数発生した

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系列のデイは建物が使えず、特養のホールで活動していた

(中)地域住民150人が避難
​   食料が不足し、1日に2食の時期も

  激しい揺れが収まった1月1日午後4時22分、能登半島には大津波警報が発令された。警報を受けて、七尾市の高台にある特養あっとほーむ若葉(定員100人)には地域住民約150人が避難し、車列で一時渋滞するほどだった。「福祉避難所だが、一般の避難者が来るとは考えていなかった」と小山孝志事務局長。入居者のケアや避難者の対応に追われつつ、食料が底を尽きるという不安が頭をよぎり、その懸念は現実のものとなった。
  社会福祉法人能登福祉会の運営する特養は養護老人ホーム(同80人)を併設し、法人として小規模多機能型、デイサービス、サービス付き高齢者向け住宅なども運営。高齢者福祉の拠点的役割を果たす。
  地震後は入居者の安否や施設の状況を確認。通電しており、館内居室は個別のエアコン、共有スペースは冷温水発生器利用で複数の熱源が稼働。系列デイや小規模多機能には灯油ストーブもあった。断水はあったが、飲用水備蓄のほか井戸水をくみ上げてトイレや洗濯、清掃といった生活用水に使えた。入浴はできず、上水道が復旧する1月下旬まで清拭で対応した。

特養敷地内でも約30センチの

陥没が起きていた

  地震時の職員体制は特養、養護合わせて7人。出勤できない人もいたが、緊急参集の職員も

含めて約40人が入居者をケアし、避難者のためにマットや毛布、畳などを用意する作業に追われた。住民の避難はもちろん、150人が詰めかける事態は想定外だった。

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落ちた天井が激しい揺れを

物語る

輪島朝市通りの焼け跡には

​花が手向けられていた

炊き出しに「おいしそう」と束の間の笑顔を見せる被災者もいた

(下)全入所者を他施設へ避難
​   輪島市・特養あての木園 再開のめど立たず

  施設内は数人の職員がいるだけで、人のいない居室も静まり返っていた。
  1月12日、輪島市の特養あての木園は約100人の入居者を県内他施設に二次避難させた。地震後は電気、水道、電話が使えず、一時は暖房用の灯油も底をつく過酷な状況に。入居者の尊厳と健康を守るための決断だった。「職員が何人残るかどうか、建物をいつ直せるかも分かりません」と谷口広之施設長。全入所者が転出した今、施設の行く末は不透明なままだ。
  運営する社会福祉法人輪島市福祉会は特養のほかに訪問介護、居宅介護支援、訪問入浴などの事業を展開する。あての木園は1986年4月事業開始の従来型特養だ。
  地震当日は妻の実家で家族と過ごしていた谷口施設長は地震を受けて出勤。15キロの道のりを車で2時間かけてたどり着いた。施設は送電が停止し、基地局が壊れたためスマートフォンはもちろん、電話もインターネットも使えない。断水も起きていた。暖房も灯油ボイラーからオール電化に更新していたため停止した。
  熱源は非常時に備えた8台の灯油ストーブ。地震当時の入所者は87人、ショートステイは10人。高齢者を一堂に集めて暖を取り、ストーブで温めて食事を介助した。だが灯油ストックは100リットルほど。2日には底をつきた。3日目以降は近隣住民からの寄贈や、金沢市から来る職員の知人に購入してもらうなど灯油確保に尽力。物資の届く5日まで持ちこたえた。

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